「感受性 ≠ 芸術」な、私の感じるチカラ。
「感受性の権化みたいな人なのにね」
と言われるほど、
感受性の豊かさという資質を持つ私ですが、
実は
「自分が感受性が豊かなのだ」
とわかったのは、一昨年です。
遅い…(笑)
いや、
感受性がないと思っていたわけでもないのですが、
特段豊かだとも思っていなかった…
だってね、私は特に、
音楽とか、絵画とか、舞踊とか、演劇とか、
芸術的なことに対する才能や興味が、
それほど高くなかったからです。
つまり、
「感受性 = 芸術」
という方程式が私の中に存在していて、
それが前提になってしまっていたのです。
感受性が豊かな人というのは、
芸術的な才能や興味が高い人だ。
と、そう思い込んでいたのですよね。
だから、
芸術的なことに対してそれほど興味のない私は、
感受性など豊かなはずがない、
という、完全なる思い込みを持っていました。
感受性など豊かなはずが「ない」
と思い込んでいるので、
感受性にまつわる様々な情報を
私のアンテナはキャッチしないまま
40数年間を生きてきたわけです。
もしかしたらどこかのタイミングで誰かから、
感受性が豊かだね、
と言われたことがあったかもしれませんが、
アンテナがキャッチしていないので、
自分のことと切り離してしまい、
完全にスルーしてきていたのです。
あともうひとつ、思い込みがあって、
【みんなそうだと思っていた】
「そう」というのは、
私が感じ取っていることは、
みんなも同様に感じ取っているものだ、と、
これまた思い込んでいたのです。
だから、
この感覚が自分の資質だと思うこともなく、
当たり前のこととして過ごしてきていたのです。
人はまず、「気付く」ということで、
自分のこととして出来事を捉えることができます。
いつも通る道の端に咲いているすみれの花。
いつも慌ただしく通り過ぎるだけで、
そこにすみれの花が咲いていたことに気付かなければ、
「ない」のです。
本当はそこに「ある」のに、
自分が見ている世界には「ない」。
つまり、気付くというプロセスがなければ、
自分の世界に存在しているということにそのものに、
気付くことができないのですよね。
感受性、感性というものは、
目に見えるものではありません。
数字で明確に測れるものでもありません。
感覚というのは、
その本人にしか感じることができないものだからこそ、
なおさら、
自分自身が「気付く」ということをしなければ、
永遠にないままとなりやすいのです。
感受性、感性は、
いくら頭で考えたところでわかるものでもなく、
それはただただ、
今の自分が感じていることを、
丁寧に味わい、表現することでしか、
「気付く」ことができないものだと思うのです。
私は、このプロセスを経験して初めて、
自分に豊かな感受性が備わっていたことを
実感することができたのです。
自分が当たり前だと思ってきた感覚が、
いかに細やかな情報で、繊細なものだったのか。
あぁ、どうりでしんどさを感じる場面が
多々あったことにも合点がいったわけです。
思考ではなく、体感で味わってみる。
それはまさに嘘偽りのない、
真っ直ぐな自分の思いそのものなのでした。
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